日々考える。

たまたま実家が金光教の教会だった20代女性によるブログです。自分のルーツや生き方について考えています。

物心ついた頃から、教会にご縁があり幼少期は祖父母・母と実家である

教会に住んでいた。 祖母には吉備舞を教えてもらい、御大祭では

いつも吉備舞をさせていただいていた。

御大祭の時は吉備舞の為に早退。

クラスメイトが何で帰るの?と聞いてくる度に、家の用事があるから

といって皆と違う事・早く帰れる事が嬉しかった。今思えば謎。

 

 

今よりはもっと信心するという事が身近にある環境だったが

かなりゆるかった。

子供だし、祖父が言う教えに関する事は理解できないし、

御祈念はつまらないし、足はしびれるし。

月例祭は早く終わってほしい、遊びに行きたい と思っていた。

 

夜の御祈念は終わってから御結界に座る祖父に こんばんは というだけ。

(兄弟皆、高校生までこれだった。周りは何も言わない。)

 

小学校低学年まで、教会(通称:実家)に住み、小学校高学年 以降は

母・兄弟達と近くの家に住んでいたので、

 

学生時代は 夜の御祈念(終わった後)にお参り

成人してから 出勤前に立ち寄ってお参り・夜の御祈念(終わった後)にお参り

という感じ、ほぼ毎日 言われるがまま&ルーティーンでお参りしていた。

 

そもそも、日本の法律には信教の自由があるので実家が教会であっても

別に信心するかしないかは本人次第。だから本当は

「こうであるべき」「もっとこうさせてもらった方がいい」

という事があっても母・祖父母も強要は出来ない。

 

でも祖母は特に、なにかある度に

「お願いさせてもらいなさい」「お届けさせてもらいなさい」

と言っていた。それは祖母なりの思いがあっての事だろう。

 

そういう時、適当に返事をして終わりにする人もいるだろう。

意外な事に(自分で言うのも何だが)兄弟みんな素直なので、

反抗期であっても、それは何かスルーしてはいけないと思って

お届けはしていたように思う。

 

でも自分の意志ではない。

それは、流石に言われた通りしなければいけないんじゃないか

という気持ちが10割だろう。親の言う事も聞かず、素直でなければ

こんばんは の一言さえも御結界で発する事もなかっただろうし

教会に立ち寄る事もなかっただろうと思う。

 

せめてもの素直さが救いだったのだろう。

 

 

言われるがままのお参り

ルーティーンのお参り に何か意味があったのかは分からない。

 

今になって思うのは、祖父母(特に祖母)の願いがあっての

お参りだったのかもしれないという事。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めまして

どうも、初めまして。 まちこといいます。

このブログを書くきっかけは叔父の死でした。

叔父は私の祖父(叔父の父)の後を継いで、

教会の御用をさせていただいておりました。

 

曾祖父 が初代

祖父 が2代目

(認知機能の低下が見受けられるが存命中)

叔父 が3代目

の教会長として、ずっと続いていくものだと思っていました。

 

(あまり細かく書いていると身バレしそうですが、それも承知の上です)

 

が、半年程前から闘病していた叔父が先日逝去しました。

予想外でした。

叔父の終祭を終えて、

私なりに感じた事があった為

何か記録にして残せないかと思い、

ブログを作成した次第です。

 

本来は、毎日お参りさせていただくべきですが、ここ数年の間は毎日は難しいのが現状です。お参りさせていただく事も頻繁でなければ、「実家帰ったし、お参りするか」 

という感じで

どうしても作業になりがちでした。

 

学生時代は、

母に言われるがままに、ルーティー

でお参りしていました。

でもその頃の方がマシだったかもしれません。人に言われてお参りしてたけど、

毎日お参りしていました。

 

まぁルーティーンだけど。

 

お恥ずかしい話、

今はそれさえも出来ていません。

 

お参りすることがないと離れていくんですよね。毎日お参りさせていただく事が出来ない=信心する事からかけ離れる と、考える事も無くなるんですよね。

 

代わりと言っては何ですがこの記録を通して、”日々考える”

所を継続させて、日々の生活に考えるきっかけを…と思っております。