私
物心ついた頃から、教会にご縁があり幼少期は祖父母・母と実家である
教会に住んでいた。 祖母には吉備舞を教えてもらい、御大祭では
いつも吉備舞をさせていただいていた。
御大祭の時は吉備舞の為に早退。
クラスメイトが何で帰るの?と聞いてくる度に、家の用事があるから
といって皆と違う事・早く帰れる事が嬉しかった。今思えば謎。
今よりはもっと信心するという事が身近にある環境だったが
かなりゆるかった。
子供だし、祖父が言う教えに関する事は理解できないし、
御祈念はつまらないし、足はしびれるし。
月例祭は早く終わってほしい、遊びに行きたい と思っていた。
夜の御祈念は終わってから御結界に座る祖父に こんばんは というだけ。
(兄弟皆、高校生までこれだった。周りは何も言わない。)
小学校低学年まで、教会(通称:実家)に住み、小学校高学年 以降は
母・兄弟達と近くの家に住んでいたので、
学生時代は 夜の御祈念(終わった後)にお参り
成人してから 出勤前に立ち寄ってお参り・夜の御祈念(終わった後)にお参り
という感じ、ほぼ毎日 言われるがまま&ルーティーンでお参りしていた。
そもそも、日本の法律には信教の自由があるので実家が教会であっても
別に信心するかしないかは本人次第。だから本当は
「こうであるべき」「もっとこうさせてもらった方がいい」
という事があっても母・祖父母も強要は出来ない。
でも祖母は特に、なにかある度に
「お願いさせてもらいなさい」「お届けさせてもらいなさい」
と言っていた。それは祖母なりの思いがあっての事だろう。
そういう時、適当に返事をして終わりにする人もいるだろう。
意外な事に(自分で言うのも何だが)兄弟みんな素直なので、
反抗期であっても、それは何かスルーしてはいけないと思って
お届けはしていたように思う。
でも自分の意志ではない。
それは、流石に言われた通りしなければいけないんじゃないか
という気持ちが10割だろう。親の言う事も聞かず、素直でなければ
こんばんは の一言さえも御結界で発する事もなかっただろうし
教会に立ち寄る事もなかっただろうと思う。
せめてもの素直さが救いだったのだろう。
言われるがままのお参り
ルーティーンのお参り に何か意味があったのかは分からない。
今になって思うのは、祖父母(特に祖母)の願いがあっての
お参りだったのかもしれないという事。